祈りの日

73年前の今日、米軍のB29爆撃機が広島市中心部へ原子爆弾を投下し、一瞬にして十数万の非戦闘員の人々の命を奪いました。

その日、父は千葉県の砲兵学校にいました。 母は、空襲を何度も受けた呉海軍工廠の約3㎞山の手の実家から、ピカッと目の眩むような凄まじい一瞬の光の後、雲1つない青い西の空に、地の底から湧き出るようなキノコ雲が上がるのを見て、「ああ、これで日本は終わりだ」と思ったそうです。

海軍工廠に勤めていた私の祖父が、呉港に停泊している(船全体を松葉で隠した小山のような)戦艦大和を指さして、「この船が港からいなくなったら、日本は負ける」と言っていたそうですから。

その母も、今年91才。 その後、知り合いを探しに広島に入った様ですが、その時の事は、未だに言葉にしてくれません。

尋常高等小学校(今の中学)だった父の末の弟は、当日、建物疎開(火事の延焼を防ぐため、家屋密集地の建物を一部壊すこと)のため、広島市内を移動中に被爆。 偶然にも、自宅近所の人がリヤカーで通り掛り、リヤカーに乗せられて、その日の夕方に帰宅。 顔がパンパンに膨れ上がり、家族でも判別がつかない状態でしたが、7人の兄弟姉妹の名を次々に呼んだことで確認。 布団に寝かせましたが、火ぶくれした体中から血の混じった体液が流れ出てどうにもならず、翌7日未明に亡くなりました。

大工の祖父は翌朝、泣きながら末の息子の棺を作り、すぐ裏の寺に頼んで葬儀をしたそうです。ただ、焼場が一杯でどうにもならず・・・後の事はよく判りません。

父の兄弟は男6人女2人の8人で、父は3男です。 長男と3男の父が祖父に従って建築業を継ぎ、次男は、大工の家では異色の弁護士になりました。

その次男も、白島に現存する広島家庭裁判所での裁判の為、広島電鉄で通勤途中、立町電停付近で被爆。 次男の叔父が満員電車の吊革につかまっている時に、風呂敷包の荷がほどけ、かがんだ瞬間に衝撃があり気絶。 起き上がろうとすると重くて動けない。 しばらくして少しづつ身を起こしたら、折り重なった遺体に守られ、電車の中で生き残っていたのは自分だけと判り、しばらくは立てなかったそうです。

その叔父も、今の私の歳に亡くなりました。

生前、「わしが禿げとるのは、原爆におうたからじゃ」と言っていましたが、兄弟が皆禿げですから、言い訳の意味が分かりません。 ^^;;

昨日は、現中国領の新疆ウイグル自治区である「東トリキスタン」の亡命政府大統領「アフメットジャン・オスマン氏」の講演会がありました。このお話も、折を見て書いていこうと思います。

今日は、「第10回8.6広島平和ミーティング」が、18:00からJR白島駅徒歩5分の「上野学園ホール」で開催されます。 講師は現参議院議員の青山繁晴さん。この人の話は、とにかく情報てんこ盛りで面白い。スタッフの一人として、「2時間以内で終わるかな?」と心配しています。

さて、日本人の平和への思いは、誰しも共通だと考えたいのですが、どうにも違う人たちが、8.6が近づくと多くなる。 色々と書きたいことは沢山ありますが、今日は、特別に静かな祈りの日でありたいと思います。