http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150113-00000011-pseven-life
フランスの週刊新聞「シャルリー・エブド」襲撃事件は、犯人の2人を射殺して終わった。「表現の自由を守れ」と、現地で開かれた大集会を見てコラムニストのオバタカズユキ氏は違和感を感じたという。(中略)
そうしてみて改めて思ったのは、笑いは容易に他人と共有できない、という現実だ。風刺週刊紙の風刺画をじっと見ても、どれひとつとしてクスリと来るものがない。「風刺」は「笑い飛ばす」ことだけが目的ではなく、<社会制度に見られる構造的な欠陥や、高官の言動にうかがわれる人間性のいやしさなどを、露骨に非難せず、やんわりと大所高所から批評すること>(『新明解国語辞典第五版』)だとしても、「これが批評ねえ……」という違和感ばかりが募ってしまう。
ネットで拾った限りだが、『シャルリー・エブド』紙の風刺画は、あまりにも露骨な非難に偏り、ちっとも「やんわり」なんかしていないのだ。さじ加減がどうのこうのといった次元ではなく、バケツでどばどば毒の原液をぶちまけている感じ。人によってその感じ方は違うだろうから、個々でご覧になってほしいが、風刺というより侮蔑のオンパレードだと思った。たいていは、自分の中のNGラインを超えていた。(中略)
表現をする者には自制心が不可欠だと思う。からかいたい対象はからかってもいい。が、まず、どんな反撃が来てもおかしくはないと、覚悟せよ。そして、「笑い」が、相手を蔑むばかりの「嗤い」にならないよう、自己コントロールせよ。自由な表現を続けたかったら、最低限のルールを自分に課せ。(終わり)
私は、「おばたかずゆき氏」を全く知りませんから、彼に対する論評は避けますが、「仏の表現の自由」に違和感を覚えた処は共通しています。
人それぞれ怒りの許容範囲は違います。守るべき対象も違います。軽い冗談を言ったつもりでも、聞いた側がどう感じるかの感性が無ければ、非難や侮辱に当たることがあります。
「自由には重い責任がある」と、いつも言っているのは、欧米の訳知り顔の人権活動家たちではありませんか?
もちろん、今回の事件を肯定している訳ではありません。どんな事であれ、銃などによる強制的な批判封殺を許してはならない。だからといって、「何を書いても表現の自由だ」と言うなら、それ相応の反撃も覚悟する必要があるのは、自由社会では当たり前の事。
熱心な学会信者に、「創価学会は邪教だ」と大勢の人々の前で言われてたら、その人に殺意すら感じるのは当然。例えそれが真実であっても、それを言えばどうなるかぐらい考えて行動するのが、実際の自由社会であると思っています。
今朝の産経13面のオピニオン、「曽野綾子の透明な歳月の光」言論の自由と覚悟、にも、同じような内容がありました。
彼女は敬虔なクリスチャンですが、幼い時、欧米人の修道女に、「決して他人の信仰対象に無礼な言動をしてはならない。また時には社会に害毒を流すような人が、その宗教の信者にいたとしても、その人の行為一つで、その宗教全体を批判してはならない」と教わったそうです。
彼女の平衡感覚は、この辺りにもあるのだと、改めて幼いころの教育と、教職に就く者の倫理感の大切さを感じました。
でも、議会は全く違いますけど ^^;;
それでも敢えて、言わなくてはならない(事実を突き付けて、相手の古傷に塩を塗りたくる)こともあり、議論で負けたらお終いという事態も、往々にしてあります。(人格攻撃は絶対にしませんがね ^^; )
ですから、「議員は嫌われてナンボ!」の世界。 仕方ないですよね~