まず、五公五民の意味から提示すべきでしたね。反省です。
江戸時代の年貢収取率を表現した言葉。全収穫量の 50%を領主が取り,残り 50%が農民の手元に残される場合を五公五民といい,領主の取り分が 40%で農民に 60%が残される場合を四公六民という。豊臣秀吉は二公一民を基準とし,江戸時代初期には四公六民,享保年間 (1716~36) 以降五公五民になったとされている。一般的には支配区分 (幕領,私領の違いなど) ,年貢収取法 (検見取,定免制) ,時代によって同一地域でも高低があった。ときには高崎藩のように八公二民という高率の例もあった。(ブリタニカ国際大百科参照)
戦国時代には「いざ鎌倉」となれば、百姓には地元領主からの徴兵があり、盗剣や鋤や鍬を持って否応なく参戦。戦死したら補償などなく、女房子供が田畑を耕して年貢を納められれば良い方。
大抵は「口減らし」の為に子を売り、それでも食えなかったら、若い後家は街へ出て「飯炊き女」として体を売り、30過ぎた後家は食うや食わずで餓死するしかない等と、左翼的文献には書かれています。
しかし当時は、度量衡(長さ・体積・重さ)の基準が一定しておらず、信長や秀吉の検地などでも、検地尺の基準竿を短くして田畑の全体面積を少なく測定、作物の収量を胡麻化すのは当たり前。
また、大抵の部落には「隠し田畑」と「隠しムロ(室)」があり、そこに種もみや食料を備蓄していたという真面な資料も沢山あるので、命を掛けたお百姓さんの強かさに感心すべきでしょう。
しかし、3代将軍徳川家光公の時代以降、度量衡の重要さが認識された上で「四公六民」が浸透し、徐々に経済発展していきました。
が、赤穂浪士討ち入りの「元禄」・富士山噴火の「宝永」を過ぎ、名君と言われた八代将軍吉宗公の時に大阪・京都・江戸の大火、「享保」のイナゴ大飢饉があった後に、年貢は「五公五民」とされ、全国的に百姓一揆が頻発したのです。
蛇足ですが、東日本大震災の後に、全国(被災地を含む)の公務員・特別公務員を対象に給与削減を強制したバカな政党(民主党)がいました。財務省の言いなりで、減税などの景気対策が必要な時に、国民の購買力を減らす対策をした愚か者達に、二度と政権を渡してはいけません。
でも、財務省のポチ岸田君なら同じ事するんだろうな~