(ポリコレとは「ポリティカル・コレクトネス」の略語であり、性別や人種、職業や宗教などに対し公正な表現もしくは言葉を使用すること)
バイデン大統領候補の公聴会2日目、マーシャ・ブラックバーン上院議員は、ケータンジ・ジャクソン判事に「女性」という言葉の定義について質問したが、ジャクソンはその言葉を定義しようとしなかった。
「女性という言葉の定義を教えてください」。ブラックバーンは尋ねた。ジャクソンはこう答えた。「いや、できない」
「できない?」ブラックバーンは尋ねた。(上院議員も判事も、実は女性なのだ)。「この文脈では無理です」とジャクソンは言った。「私は生物学者ではありません」
「“女性”という言葉の意味が不明確で論争になっているので、定義を示せないということですか?」
「上院議員、裁判官としての私の仕事は、紛争を扱うことです。定義について論争がある場合、人々は議論をし、私は法律を見て判断します」とジャクソンは言った。
「女性とは何かという基本的な事柄について、あなたがまともに答えられないという事実は、私たちが聞いているような進歩的な教育というものを強調しています」とブラックバーンは述べた。
性別に対して公正な表現であるはずの「女性」という言葉の定義を、米最高裁判事が答えられないらしいのです。 もう米民主党は病んでいますね。
国の法の番人である最高裁判事が、ポピュリズム(大衆迎合)に走るとは。痴呆バイデンは、マトモではない人を選んでしまったという事でしょう。
私は多くの文献を見て、「LGBTは後天的な存在」だと確信していますから、生物学的な「性」を定義の基本にすれば良いと思っています。
性別の決定に関わる情報を持つ性染色体は、X型とY型の二種類があり、「XY」のペアで男性、「XX」で女性になる。
だから、マツコデラックス氏はオカマの男性だと普通に判断すれば良いのです。今のところ日本では、彼が女性の浴場に入れば、立派な軽犯罪法違反になりますよ。
お久しぶりです.なかなか議論について行けていないこなです.
さて,この話題ですが,私はちょっと違った角度から違和感を感じています.
またまた個人的な経験から始めますが,若い折に海外に行った時,やはり今でも世界の中心は欧米だ,というこ現実を突きつけられましたね.
英語もろくにできない独り身では,会話にも入れませんし,いろいろな場面で疎外感を感じました.ありていに言えば,差別もされました.
でもですね,そんな状況でも,「政治的に訴えて,現状を変えよう」とはつゆほども考えられませんでした.
そうではなく,地道に努力して,自分の近しい人に対して,一人ずつ信用を勝ち得ていく・・・,その方法しかありえないし,そうすることこそがプライドでした.
そして,そんなプライドを支えてもらったのが,現地に住まう日本人移民の先輩たちの生きざまだったのです.
決して高い教育を受けたわけでもなく,それこそ言葉も分からず,見ず知らずの土地にい移住して,明らかに差別されてきたであろう境遇にあったはずの日本人の先人たちは,決して泣き言を言ったり,派手なフォーマンスをしたりすることなく,それでも一歩ずつ,着実に,現地での生活を構築していったのです.そして,最終的には立派な人だとして現地の人たちに受け入れられていたのです.
そういう日本の先人たちの生きざまに感銘を受けた私としては,LGBTに限らず,政治的にさアw技立てる人のメンタリティが,正直受け入れられないのです.
平たく言えば,「郷に入れが郷に従え!」です.
でも,文化や思想によっては,そうすることで自分を失うと感じる人たちも多いようです.
例えば,世界のどこに行っても自分の宗教戒律を崩さずに,相手に譲歩させることが,自己の強さ正しさだと考える人たちがいます.
あるいは,現地の人や習慣と交わらず,狭いコミュニティを作りその中に生きることこそ,自分たちの気高い文化を守る証だと考える人も,これは日本人の中にも,たくさんいます.
そういう人たちにとっては,「郷に入れば項に従え!」は,あたかも自己否定のサインであり,自分の弱さの照明にもなるようです.
ココがなかなか伝わらない.私が感銘を受ける日本の先人たちは,思いっきり郷に入れば郷に従えでしたが,それゆえに自分自身のアイデンティティが揺らぐなんてことはつゆほども感じられなかった人たちのことです.
柔軟で,しなやかで,それでも揺らぐことがない自己です.自らがマイノリティの立場であったとしても,淡々とその事実を受け入れながらも,自己の気高さをひとつづつ周りに伝えられるような人格です.
そういう人に,私はなりたいですね.