③ これにより日本のマスコミは次第に中国報道が一方通行となり、新聞、放送界においては中国に対して不利な記事は避けるようになり、事実から遠ざかる内容のものへと変わって行く。
1964年4月、自民党の3議員が訪中し、「新聞記者交換会談メモ修正に関する取り決め事項」(日中記者交換協定)に調印した。
これにより、
- 中国を敵視しない、
- 二つの中国を作る陰謀に係わらない、
- 日中国交正常化を妨げない」という
- 「政治三原則」との政教不可分の原則を確認するに至った。
その後中国共産党による検閲に拘束され、上記事項を批判はもちろん、自由な報道さえも困難になる。朝日、NHK、毎日等にその傾向が顕著となる。中国のマスコミ工作に屈したのである。
1972年4月衆議院予算委員会で、佐藤栄作総理大臣、福田則夫外務大臣は、この協定は民間協定で政府は関与し承知していないと答弁をしている。しかし、現在まで日本の報道機関の取材は、中国政府の監視下に置かれ、マスコミへの対日工作は着実に進んでいる。1972年9月、北京において、田中角栄首相のもと日本国政府と中華人民共和国政府間の共同声明が発せられた。また、1978年8月には、日中平和条約により覇権否定他経済文化関係の発展と交流の促進等を定められた。
「日本列島改造論」を論じた頃の田中角栄は通商産業大臣であつたが、時の予算審議委員会で「日中国交正常化を実現するには中国大陸に迷惑をかけたことに謝罪したい」との発言に、周恩来は注目していたという。従って田中が中国にとって好ましい人物として受け止められていたことが、日中友好共同声明に繋がったと言われる。
この声明により日本では専ら友好万歳の報道であったが、中国には「日本の懐柔、強いては日本の資金と技術を導入する」という冷徹な計算があり、日中友好を情緒的に受け取止める日本人は中国の本音に気づかなかった。
これにより中国の諜報機関の活動は一層活発化し、「政財界と大手新聞社」への工作が奥面もなく始まることになった。多くの政財界人は弱み(ハニートラップ等)を握られ、中国に堂々とものを言うことが出来なくなり、対中支援資金や中国投資資金の多くは、中国銀行を通す事を求められることになった。中国銀行は諜報機関の拠点とも言われ、中国報道等についても次第に規制されることになった。日本側の思惑とは異なる方向へと進み始めたのである。
1974年1月「日中常駐記者交換に関する覚書」を北京で調印、日中双方の記者が常駐するという現在の体制の基盤ができた。内容は「日中友好の精神に反して、即ち反中国的で、台湾独立を支持する報道機関と特派員は中国に受け入れられない」というものであった。
1970年代、田中首相による日中共同声明、日中友好条約は中国にとって、中ソ対立の世界戦略上重要であつた。これ以後三木首相、福田首相、大平首相へと移るが、その間中国の対日工作は盤石となる。毛沢東、周恩来が死去し、華国鋒、鄧小平時代には少し日中関係は鈍化したが、対日工作は着実に進行していた。
1980年代に入り、日本のテレビ放送による「中国残留孤児の再会」の映像は、中国諜報機関の工作の成功例といわれる。この映像によって、日本人の警戒心が薄れる一因となったのである。マスコミ工作の成功例でもあった。
中国の改革開放が始まると対日工作の一貫として、日本企業の誘致のためマーケッティング活動が活発化し、中国進出が続くことになる。日中友好は日本国民が本質を熟知しない間に、1979年の大平首相時代からODA(政府開発援助)として有償、無償の援助協力、技術協力が始まるのである。
1972年の国交回復から2005年までの27年間に日本はあらゆる援助を続け政府ベースだけで、1979年から始まったODA(政府開発援助)は有償資金協力(円借款)3兆1331億円、無償資金協力1457億円、技術協力1446億円 総額約3兆5000億円という支援額に達している。
そのほか民間でも約2000社が年間約50億ドルという投資を繰り返し資金や技術を提供して来ている。日本政府はODAの有償資金協力(円借款)を2008年の五輪前に打ち切り、2006年4月返済不要な無償資金協力も打ち切ることを固めたが、他の援助についても見直すべき時期に来ている。
1981年3月「外国人記者駐在管理暫定規定」が公布され、記者の活動は種々制約を受ける。1989年6月、天安門事件(64天安門事件)が起き日本人の中国感に変化を与え、中国への友好感情は遠ざかり始める。また中国の工作はマスコミとともに、財界を重視する方向に舵がきられた。
小泉首相時代、中国は江沢民から胡錦濤へ政権が変わり、靖国問題、原潜の領海侵犯、東シナ海問題、日本の安全保障理事会・常任理事国入り等の摩擦が起こる。これにより中国の工作活動は鈍ることになる。
1990年1月「外国人記者及び外国駐在報道機関管理条例」を国務院が公布、中国報道はさらに制約される。これによって、 日本の記者は、「外国人記者駐在管理暫定規定」「外国人記者及び外国駐在報道機関管理条例」等により他国の記者と同様に適用されるとともに、1974年日中両国政府間で調印された「日中常駐記者交換に関する覚書」があり、他国の記者より一層強い制約を受けることになった。
欧米のマスコミは北京と台北に支局を置くことに制約を受けないとされている。
AP、UPI、ロイター、AFPの四国際通信社は北京と台北に特派員を置き、ニューヨクタイムス、ワシントンポスト、ウォールトジャーナル、ロスアンゼルスタイムスの米国有力紙は北京に常駐記者を置き、さらに台北にも記者を派遣している。
これに対し、台北への派遣を制約されている日本政府と日本記者協会が抗議したということは聞かれない。これも中国の対日工作の延長上にあるのである。
2002年2月、「中国出版管理条例」を発布したが、その第49条の第1項には、中国共産党の指導を称揚、第2項は中国を大国と認識させ、第3項は経済協力、第4項は日本の技術移転、第5項は日中友好を維持、第6項では歴史を認識させ、第8項で台湾解放に協力させる、また第9項は米国を牽制し、第10項はソ連に備える、等の意味のものが定められた。
「日中記者交換協定」と同様に、中国の意図する方向に、マスコミを誘導し、排他的、一元的なコミユニケーション環境を作り上げている。その上、あらゆる在日中国人学者、学生の一般誌への論文発表、出版、ホームページ、中国語会話スクール、テレビ番組、TVコマーシャル、高等教育機関への関与までに至る広範囲の統制がなされ、二重三重に身動き出来なくなっている。
2006年1月、北京における日中政府間協議において、中国外務省崔天凱アジア局長が「日本のマスコミは中国のマイナス面ばかり書いている。日本政府はもっとマスコミを指導すべきだ」と発言した。この言葉は、中国のマスコミに対する認識と、姿勢がよく表れている。
2006年8月、中国の唐家旋国務委員が日本経済新聞杉田社長に、「日本のメディアが中国の対日政策を日本国民が正しく認識するよう導くことを期待する」と求めた(産経新聞)。
「日中記者交換協定」はその後「覚え書き」が加わったが、現在も生きている。これに対して新聞記者協会等の抗議は遠慮がちに抗議文を発表したものの批判は相変わらず聞かれない。また、政府は曖昧な態度しか示していないので、中国に既成事実を認めて今日に至っている。
2008年11月号のWILLによれば、日本で反日を煽る中国語新聞が乱発されている。これによると「日本国内で数多くの中国語新聞が発行されている。その数は20紙以上で、主な反日中国系新聞は、新民晩報、中文導報、陽光導報、日本留学生新聞、日中新聞、中華新聞、華風新聞、日中商報、半月文摘、網博週報、聯合週報、時報週刊、知音報他で、親日的なものは少なく華人週報、大紀元時報、日本新華僑報、新華時報等」と紹介されている。
書店に行くと中国雑誌の急増には驚かされる。しかも発行者は新華社通信、国務院新聞弁公室、南方都市報・南方都市メディア集団管理、国家新聞出版社等であり、国家的な戦略として新しい流れが創造されている。このような中国共産党系の新聞雑誌類の普及について日本国民は一般的に無関心である。
4.最近の工作
2007年1月、中国製冷凍ギョーザの中毒事件が発覚、2月、中国国家品質監督検査権益総局王大寧局長は、日本の報道が過熱過ぎると懸念を表明の上、日中間の対中輸出製品に何らかの報復措置をとるとした牽制とも受けられる指摘をした。日本に問題ありきという姿勢であつた。同年6月、中国天洋冷凍ギョーザを食べた中国人が、メタミドホスの中毒症状をおこしていたことが分かったと、中国側から日本に知らされていた(読売新聞)。
2008年8月、日本政府は「サミット、オリンビックという事情を踏まえ、中国側からの要請で公表を控えた」ことが明らかになった。中国擁護とも思われる外務省の姿勢には、中国の強力な工作があったと自覚しなければならない。
2008年4月26日、長野の市内は「赤い集団」により埋められ、市民は身を潜めた。五輪の聖火リレーを見に来ても中国人は見えても、長野市民は近寄ることもできなかった。日本に滞在中の中国人の多く(留学学生を中心)は、日本にいながらいつでも自国の中国政府の指示を優先し、日本国の規則は何時でも無視できるという行動に出た。 一体この人達は日本へ何をしに来ているのか。
この「赤い集団」の移動に埋められ市民が中国旗のポールでケガをしたにもかかわらず、日本側に逮捕者がでたが中国関係者には音沙汰なしであつた。これらの行動と対応によって、中国の在日「解放工作組」の存在と、政府、マスコミへの工作の実態が明らかになったのである。
2008年5月、四川大地震により、日本の救援隊が到着したにもかかわらず、長期にわたり活動は止められた。また開始された遺体収容作業と医療活動は震源地より離れたところで行われ、明らかに政治的な工作、意図が人命救助に優先されたのである。
さらに、この被災地域は核施設の集中するところで、中国政府は、「埋もれた放射源は50個あり、そのうち35個がすでに回収された」と当初の発表を修正報道した。また、中国核工業建設公司は、「プルトニュウムと核弾頭を生産する821工場は甚大な被害を受けた」と修正報道した。またアメリカのマスコミには、核施設の爆発の可能性を示唆するものもあった。これらについての日本のマスコミの報道姿勢には、中国に対する自制が強く働いており、大きく取り上げられることはなかった。
2008年6月福田内閣は、東シナ海ガス田問題で「中国側の譲歩を勝ち取り」、日中中間線附近での「共同開発」を中国側に認めさせたと発表した。しかし、中国側は全く反対に解釈しており、中国の主張する「沖縄トラフ境界線」の布石で、これにより大手を振って同海域の開発に出てくるであろう。日本に対して「共同開発」は甘い言葉の上で、次第に支配を及ぼして来るに違いない。
5.おわりに日本における中国情報は、1964年「日中記者交換協定」1974年「日中常駐記者交換に関する覚書」等 により今現在も縛られている。これは1978年8月 日中平和条約が締結される以前のもので、本来はこの時に破棄されるべきものであった。
1972年4月衆議院予算委員会で、佐藤総理大臣、福田外務大臣の答弁は、この協定は民間協定で政府は関与し承知していないと述べたのみで、日本国として歴代の政権担当者は、触れた形跡がない。「日中記者交換協定」 には、東大・田中明彦研究室によると、40年以上前の民間協定に日本の派遣員が束縛されることはあり得ないとしている。
テレビ局の報道は中国の意向に合わないようであるとチェックされ、抗議、脅迫、訂正要求等の干渉を受けている。中国人の諜報活動はやりたい放題になりつつある。日本や台湾等に半世紀以上をかけて築き、工作活動を続けて来た成果であり、工作要綱の示す通り各種団体、学者、学会、学生、報道機関は関与され何も言えないように仕向けられるという。情報工作が現実化し始めている。
マスコミ関係者は情報を得んがため、自らの国家利益を損なうような選択をすることの是非を考えてもらいたい。政府関係者と共に毅然とした態度で臨めばおのずから相手国の対応も変わってくるだろう。日本のマスコミ及び政府関係者は強く改善を求めるべきで、単に政府の当時の答弁のみで済まされる問題ではない。日中友好の中国側の真の意味を理解しないまま、言葉の魔術にかかっている。
日本のマスコミ関係者は一部新聞を除き中国の顔色を伺うという自己規制をしすぎていないか。日本の安全保障は、この様な面からも崩されつつある。
中国の工作活動は、20年から30年或いはもつと長いスパンの元に行動し続けているし、今後も変わらないであろう。片や日本は戦略思想に欠け戦後は米国の庇護のもと短期的な対応に終わって来たように思える。米国は自国の国益の元に行動しているわけで、日本としても独自の工作活動への防衛策を講じて行く必要がある。
中国の目的は日米離反であり、日本の技術力を中心とする国力の利用と抑制である。このため日本のマスコミ界を監視下におき言論操作を行い、かつ日本の技術を如何に奪い取り、政治的影響力下に置くかを狙っている。
対日工作は今後も限りなく続き、このような状況にありながら有効な対策を打てず、日本は無防備の状態にあり、日本の安全を守るために早急な対策が求められている。③