令和2年12月議会一般質問「戦後教育などについて」 かくだ俊司
今年は戦後75年。広島のある被爆者団体によって、毎年8月6日に行われる平和宣言がある。 11月の臨時議会でも少し紹介したもの。
それには、昭和19年半ばから日本本土への無差別爆撃が本格化し、ソ連の仲介で終戦の道を探ろうとしていた日本へ、アメリカは明らかな戦争犯罪である2発の原爆を投下したとあり、それを指揮した米軍の将校は、「もし、我々が戦争に負けていたら、戦争犯罪人として裁かれていただろう」と言ったと。
そして、南シナ海・香港・台湾・尖閣などの日本周辺で起こっている状況では、憲法前文のごとく「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」いれば、平和な世界が訪れるとは言い難いと述べ、
「日本も、核兵器禁止条約に加盟するのが戦後の平和主義にかない、全ての被爆者の願望だと言われているが、しかし、私達も同じ被爆者と被爆2世としてそれに反論する。その条約は日米同盟を揺るがし、我国の安全を脅かすかもしれないのだ」と。
そして、核保有国が加盟しない条約で核兵器を無くせるのか?憲法の平和主義だけで我が国は平和なのか?と我々に問い、「私達の平和には、自ら守る意思と能力を、他国と同様に備える必要がある。私達は、そうした断固とした努力によってこそ、あやまちを繰り返させない。確固たる平和と安全を確保できると信じます」と結んでいる。
平和公園に刻まれている「あやまちは繰り返しません」の主語は日本ではなく、原爆を投下したアメリカである。この碑文に疑問を持たない人は、戦勝国アメリカによって仕組まれた東京裁判の呪縛に、今なお縛られたままだからだ」と。
こういう考えを持った被爆者の方々も多数いらっしゃる。いつもの見慣れた報道とは違い、被爆者の皆さんの思いは、全て同じではない事を感じ取って頂けたか?
今の教育現場で行われている平和教育についても、「戦争の悲惨さや怖さ」のみを教えている。
終戦後、復員船でようやく日本に帰ってきた、掛け替えのない肉親の事を、「お前のお爺ちゃんは人殺しだ」と教室で教え、「日本がアジア諸国の人々に如何に酷いことをしたか」という一方的な自虐史観を、純白な子供達の心に刷り込み、子供達に祖国を徹底的に憎ませていただけではないのか。
マルクスの言葉に、「青年に対し、生まれ育った国の未来や希望の灯を奪い、祖国を呪い恨むような精神を植え付ける事が革命の近道だ」というものがある。
日教組は、これを忠実に実践してきたという事ではないか?【続】
>「お前のお爺ちゃんは人殺しだ」と教室で教え、「日本がアジア諸国の人々に如何に酷いことをしたか」という一方的な自虐史観を、純白な子供達の心に刷り込み、子供達に祖国を徹底的に憎ませていただけではないのか。
>マルクスの言葉に、「青年に対し、生まれ育った国の未来や希望の灯ともしびを奪い、祖国を呪い恨むような精神を植え付ける事が革命の近道だ」というものがある。
自分事ですが,私はまさにこのような教育を受け,「日本が憎い,祖国が憎い」と考えるようになり,若い時分に海外に逃げ出しました.
もちろん,私が海外に行った理由は日本憎しだけではなく,いずれにせよ若いが故の衝動が主だったのですが.もちろん,動機はどうであれこの経験は現在も私にとって大きな糧となっております.
さて,そんな海外での経験を通して,少しづつですが,自分の考える日本像,日本人像に疑問を持ち始めます.
一つ象徴的だったのが,「自衛隊は軍隊ではない」は,全く説明ができませんでしたね.
何せ,どの国の軍隊だって,そもそもからして「self defense force」なのですから.当時の私の語学力では「Japanese self defense force is not a self defense force.」としかなりません.あほくさ.
あと,世界のどの国だって,よほどの混乱がない限り「自国こそ平和国家だ!」と考えていること分かりましたね.私の住んだ国でも「平和の国! 我らこそが,○○のスイスだ!」みたいな歌を,みな喜んでい歌っていましたよ.
とにかく,「自衛隊はあるけれどもそれは軍隊じゃなくって,日本の平和意識だけは世界のそれとは違うのだ!」との主張を,海外の友人に納得させることはついぞや一度たりともできなかったのでした.
もう少し書きます.
それでは,どうして「自衛隊はあるけれどもそれは軍隊じゃなくって,日本の平和意識だけは世界のそれとは違うのだ!」のメンタリティが説得できなかったのでしょうか?
自衛隊は軍隊じゃない,の時には語学力の不足だと書きましたが,より後になって分かったのが,これは決して語学力の問題ではないのです.
そもそも,このような考え方そのものが「欺瞞」だからです.嘘なんです.ごまかしなんですよ.
私は今でもこう思っています.本当に,日本人のDNAにいわゆる「はだしのゲン」で描写されたような残忍さが埋め込まれているのだとしたら,
「そんな民族なんて滅んだほうが良い!!」
殺人鬼が牢屋にぶち込まれ(何せ,東京裁判では人類に対する罪で実際に裁かれたのですよ,日本人は),それが恩赦(冷戦開始とサンフランシスコ講和)でたまたま国際社会に出戻ったわけです.そんな殺人鬼が娑婆に戻って,
「僕は反省しました.これからは「良い人」であることを主張して堂々と生きていきます!」
といったとて,誰が信じますか? せいぜい,
「いらんこと言わんと,おとなしくしとけや!」
と周りからどやされて終わりでしょう.せいぜい大国の植民地として,限定的な自主権を付与されて終わりのはずです(実際,国連での扱いは今でもそうですが).
いずれにせよ,
「自分から堂々と,(他国よりも)平和国家だ」
などというのは,それこそおこがましい.国際社会の末席にはおいてやってもいいが,一大国としてふるまうなんて,「人類に対する犯罪者」に許されますか?
もちろん,言い訳はいくらでもできます.
「親世代,祖父世代の罪を,いつまでも背負わされるのは前時代的だ!」とか,
「どういういきさつであろうとも,実際に日本は世界に受け入れられているじゃないか,何を蒸し返すのか?」とか・・・,
その最たるものが,
「私はそんなに野蛮じゃない・・・」
です.でも私は,そういう言い訳で逃れられると考えている人は,本当の意味で,はだしのゲンなどで書かれた「事実なるもの」に向き合っているとは言えないと考えます.
我々がどこまでも「真実」を追い求めなければならないのは,戦争が終わって育った我々の潔白(牢屋を出た後の行動)ではなく,あくまでも,「戦争を実際に戦った,我々の父親や祖父母の実像」なのです.
このような主張をすると,二言目には「歴史修正主義者」と言われます.でも,私の望みはあくまでも「祖先の真実に迫る」とこです.
そして,繰り返しますが,祖先の行動が本当に「はだしのゲン」で書かれているような残忍さにばかりまみれているのだとしたら,当時の他国の振る舞いに比べて日本人だけが突出して野蛮だったのだとすれば,私はそんな国の国民として育ったことを心から恥じますし,日本に主権など必要ないと思います.
実際に,皆さんも日々「日本にいかにまともな為政者がいないか」を嘆いていますよね.だったら,西につくか,東につくか,どちらかの植民地になればいい.
日本人なるものが,自分で自分を律することのできない,いかにも情けない,本性が野蛮な民族(あえて民族と書きます)なのだとしたら,そんな輩が,
「私(だけ)は平和です.私(だけ)はまともです」
と言ってみたところで,いったい誰が信じますか.日本が平和国家であると主張することは,そんな甘っちょろいものじゃない.
日本の平和学習は,戦争の嫌な面,悲惨な面,軍紀の乱れなどによる残忍な面ばかりを強調しています.でも,そんなやり方では,
「厭戦気分」
が醸成されても,積極的で自律的な平和意識など生み出されませんよ.生み出されるのは,とにかく,
「戦争からは逃げたい,避けたい」
との,所詮は「ネガティブ平和論」です.こんなへっぴり腰で,「平和国家です!」などと国際社会に向けて主張できると思わない方がいいでしょう.
かつて2発の原爆も含めて,本土各地に無差別攻撃を受けた悲惨さから戦争への平和を訴えたとしても,それを聞かされる「戦勝国だと信じている外国」人たちの本音は,
「そんなの日本の自業自得じゃろ!」
の一言です.
「自分がひどい目にあったから,やっぱり戦争止めたい・・・,バカじゃない? こいつ.大体,お前の国が戦争始めて,東北アジアで残忍な人殺しをしまくったんだろ.そんなもの,自業自得の罰当たりでしかない」んな風に思ってお終い(実話).
何度も繰り返しますが,「日本が引き起こしたとされる,日本ばかりが残忍だった戦争に対する反省」を基準として平和を語る限り,そんなもの,外国人の心にはとんと響かない.響くわけがないのです.単なる井の中の蛙の,自分たちの内輪だけのへっぽこ平和論にすぎません.
かなり長くなりましたが,私の場合は,海外経験を通して,「そんなこんなをじわっと学び」ました.
爾来,堂々と自律的な平和を主張できる一人の日本人になりたいと望んでいます.
そのためには,やはり,まともな歴史観,我々の先祖たちの行いの系譜に,しっかりと目を向けることが大切だと思います.そして,まさにその意味で,先の戦争中に起こった「悲惨な側面,野蛮な側面」ばかりに目を向けるのはおかしい.
そもそも,先の大戦の検証自体が,極めて困難でしょう.少なくとも,幼少の子供たちに,
「あとは自分で考えなさい」
と投げ渡すような甘っちょろい題材ではないでしょう.こういうやり方は,きわめて無責任な態度だと思います.
しからばどうすればよいのか?
こういうところで,寝るけーのさんの慧眼が光ります.さりげなく,
「鷹の目が大切」
と,別口で書き込んでおられます.日本人の国柄の把握もまた,まずは「鷹の目」でやるべきなのです.戦争の折に,あれこれあったと細かい事例を列挙することではない.
だとすると,日本の歴史は本当によく描かれていると思います.
・十七条憲法で「和の国」であることが定義され,
・「日の出る国」と国書を送ることで,独立国家であることを宣言し,
・「万葉集」で,日本的情緒の源泉が語られています.
実をいうと,千年以上前の「書類」の内容が,現代の国民に実感を持って受け止められるというのは世界的に見ても,特筆に値する日本の誇るべき特徴です.また,その後も,
・「建武の新政」で,皇室の専制はうまくいかないのだと,日本型政教分離の原則を謳ったり,
・室町から,安土桃山へかけての戦乱の世を経ながらも,近代国家へ向けての様々な制度が整備されてきた(例えば検地や刀狩り)ことが分かりやすく述べられている.
大人になってから,上手くまとめられているなと感心するのです.しかし,ここからがいけない・・・.
江戸に入ると突如,「6公4民,生かさず殺さず」,「一揆の頻発」,「飢饉! 飢饉!」,「封建主義」となるのでした.嫌な日本像の始まりです.少なくとも,若き日の私はそう感じたのです.そして,なんだかよくわからない明治維新を経て,気が付けば,「戦争大好き野蛮な日本,調子に乗って世界から成敗される」となり,戦後に続く.
さて,ここからが極めて私事なのですが,
この歴史観にひびが入ったのが,実をいうと,私の場合はくだんの海外経験だったのです.
というか,海外から日本に帰り,最初は逆カルチャーショックで大変だったのですが,そんな折の話です.
プータローとして「半分現地人的気分」の中で,日本の田舎を旅行していて,突如,気が付きました.
日本の田舎って,恐ろしく美しく,豊かなのですよ!!
いつ作られたのか分からない,古い石垣で守られた棚田の姿.これは紛れもなく,百姓(一般の人の意味)の基本的教養の高さを示しています.
また,どんな田舎に入り込もうとも,城のように大きな農家があって,当たり前のように新車のような車が並んでいる.その陰に,莫大な補助金の闇があったとしても,とにかく都会とさほど変わらない生活水準が成立している.
そして一番心打たれたのが,孫案集落の中心に,決まって実に立派な神社仏閣があるのです.
精神的にも,経済的(寄付金)にも,実に余裕がある.
こんな豊かな田舎に恵まれた日本の歴史が,「生かさず殺さず」のはずはないのです.
これは,私が過ごした外国が,いわゆる途上国だったゆえに覚えた感覚だったのかもしれません.あるいは,現代の日本の農村がやっと豊かになっただけの話で,それ以前はもっと悲惨な,世界標準的な農村風景だったのかもしれません.
ですが,少なくとも,集落ごとに建てられているやたらに立派な神社仏閣は,戦後になってからの日本政府の援助のたまものじゃないでしょう.少なくとも戦後の日本政府は,かなり病的なレベルで政教分離を貫いてきましたから.
ということは,それ以前から,規模や形はもっとみすぼらしかったのかもしれませんが,いずれにせよ神社仏閣は存続していたのです.
そして,そんな「宗教心にあふれた」農村の姿を見るにつけ,そんな場所に住まう日本人が,野蛮一辺倒だったはずもまた,理屈として,ないのです.
戦後の常識として「日本人は宗教を持たない」を信じこまされてきたのですが,神社仏閣を一等地に選んで建てた田舎の集落は,そんなステレオタイプを一気に破壊してくれました.
ちなみに,「宗教心がある=野蛮でない」がどうして理屈として成り立つのかというと,宗教心があるということは,言い換えると,一定の教養があるということの証左でもあるからです.
海外,特に途上国のアナーキストは,本当にアナーキーです.親もだれかわからない,政府の庇護も受けられないストリートチルドレンが,どうやって「自分の野蛮をコントロールするか」を学ぶのでしょうか.大人になって,社会から明確にはじかれて,そこから学ぶのは大変な苦労が伴うことだと思います.
一方で,日本は相互監視が強い窮屈な社会です.これは確かにそうでしょう.でも,見方を変えれば,教養を得るための「網の目からこぼれ落ちる人が少ない」からでもあります.いわゆる,大災害の跡にも統制が取れているというのは,「統制を取る意味を知らない人が少ない」からでもあります.世界標準から考えると,奇跡的と言っていいくらい,無教養の人(アナーキー)が少ないのです.
そして,自分たちで明確に意識できないほど当たり前に「相手を尊重する宗教観」が育まれています.
そこで最初の命題に戻るのです.
そんな日本人ばかりが,本当に,「突出して野蛮」だったのでしょうか?
歴史の真実を知ることは,本当に難しいものです.私とて,日本人の行動に一つも瑕疵がないなどと考えているわけではありません.しかし,少なくとも「鷹の目」をもって日本の歴史や風景を概観するかぎり,そんな極端な民族性は認められません.
そのうえで,日本がかかわった戦争についても学んでほしいと思うのです.そして,
「戦争時に生じた悲惨な出来事ばかりを列挙して,しかもそれは,日本人の自業自得の事例ばかりで・・・,あとは自分で考えなさい!」
と突き放すことのむごたらしさに,ぜひ一人でも多くの人に気付いてもらえたらと,切に願っています.
今日はずいぶんと書きすぎました.失礼いたします.