>差別と区別の線引きって難しいですよね。男女平等は当然ですが、なんでもかんでも男女比率を同じにすればいいというものではないと思いますし…。本当の意味での男女平等社会はまだ先かもしれませんね
その通りですね。平等の概念は非常にあいまいで、おかれた境遇や価値観によって、人それぞれ違うものだと言われます。
そして、「機会の平等」は良いが、「結果の平等」はおかしいという意見が多い。しかし、同和問題や障害者問題などが絡むと、なぜか「結果の平等」まで、当然のように求めてくる人々が居ることも事実です。
かなりザックリとした表現ですが、資本主義社会は「機会の平等」を推進し、共産主義社会は「結果の平等」までも求める。(左翼の人々が、同和問題や障害を持つ人々を、社会弱者として表舞台に引っ張り出し、ことさらに、彼らを政治利用する醜悪さには、嫌悪感しかありませんけど)
男女平等思想の根底には、「女性=弱者」というものが明確にありますが、私の人生観からすると、女性は必ずしも弱者ではありません(笑)
今の世の中は、人口の半分を占める女性の労働力が必要だからと、「女性の社会進出」を求めています。
しかし、ソ連共産党時代には、男女平等思想を通り越して、男を敵とみなす「フェミニズム思想」で、家庭は男が女を支配する場所だからと、女性を家事から解放するために、子供は生まれて間もなく専門集団で養育し、食事は工場や農場などの働く場所で3食とれるようにして、台所の無い家などを推奨し、家庭・家族の解体論も盛んになりました。その結果。
ソ連の「革新」的な実験がもたらした大惨事 文・小田村四郎 以下は、ニコラス・S・ティマシエフ(Timasheff)の 「ロシアにおける家族廃止の試み」という論文です。八木秀次・宮崎哲弥編「夫婦別姓大論破!」より引用。
http://poppo456.music.coocan.jp/in/b_cobet.htm
旧ソ連の家族破壊はどう行われたか
1917年、ロシアの共産革命によって政権を掌握した共産党及び革命政府の 施策は多くの抵抗に遭遇した。ソ連政府はその原因を家族、学校、教会にあると 考え、革命を成功させるため、家族の絆を弱め、教会を破壊し、学校を革命の担い手に変えることとした。「旧秩序の要塞・伝統文化の砦」とされた家族に対する攻撃は次のように行われた。
一、従来、法律婚の要件とされていた教会での結婚式を不要とし、役所での登 録だけで婚姻の効力が生ずるものとした。
二、離婚の要件を緩和し、当事者合意の場合はもちろん、一方の請求だけでも 裁判所はこれを認めることとした。
三、犯罪であった近親相姦、重婚、姦通を刑法から削除した。
四、堕胎は国立病院で認定された医師の所へ行けば可能となり、医師は希望者 には中絶手術に応じなければならないことになった。
五、子供たちは、親の権威よりも共産主義のほうが重要であり、親が反動的態度に出たときは共産主義精神で弾劾せよと教えられた。
六、最後に、1926年には、「非登録婚」も「登録婚」と法的に変わらない とする新法が制定された。
この結果、一、同居、二、同一家計、三、第三者の前での結合宣言、四、相互 扶助と子供の共同教育、のうちの一つでも充足すれば、国家はそれを結婚とみなさなければならないこととなった。
これにより、「重婚」が合法化され、死亡した夫の財産を登録妻と非登録妻とで分け合うことになった。こうした反家族政策の狙いどおり、家族の結びつきは1930年頃には革命前よりは著しく弱まった。
しかし、彼らが予想もしなかった有害現象が同時に進行していた。1934年頃になると、それが社会の安定と国家の防衛を脅かすものと認識され始めた。すなわち、
一、堕胎と離婚の濫用(1934年の離婚率は37%)の結果、出生率が急減した。 それは共産主義国家にとって労働力と兵力の確保を脅かすものとなった。
二、家族、親子関係が弱まった結果、少年非行が急増した。1935年にはソ 連の新聞は愚連隊の増加に関する報道や非難で埋まった。彼らは勤労者の住居に侵入し、掠奪し、破壊し、抵抗者は殺戮した。汽車のなかで猥褻な歌を歌い続け、終わるまで乗客を降ろさなかった。学校は授業をさぼった生徒たちに包囲され、先生は殴られ、女性たちは襲われた。
三、性の自由化と女性の解放という壮大なスローガンは、強者と乱暴者を助け、弱者と内気な者を痛めつけることになった。何百万の少女たちの生活がドン・ファンに破壊され、何百万の子供たちが両親の揃った家庭を知らないことになった。
こうして、1934年には、国家はこのような混乱の対策に精力を消耗することに耐えられなくなった。それは戦争に直面している国の国力を破壊するものであった。これを是正するためには、社会の柱(pillar of society)である家族を再強化する以外に方法はなかった。
こうして、ソ連の「フェミニズム」運動は、国家破壊寸前で止められましたが、日本は愚かにも、国旗国歌法成立の隙間をぬって、愚かな国会議員達により「男女共同参画法」として成立。上野千鶴子などの半キチが東大入学式の挨拶で、偉そうにドスグロのジェンダー思想を吐ける環境が整備されたのです。ソ連共産党が、壮大な実験の結果、失敗であったと検証したにも関わらず・・です。
やれやれ、こんな馬鹿げた環境で、憲法改正なんぞ出来るわけがない。
佐方の市民さん,ご無沙汰しております.こなです.
>本当の意味での男女平等社会はまだ先かもしれませんね
この問題って,本当に奥が深くて一言で説明できないですよね.で,いい言葉が思いつかなくて,コメントを躊躇していたのですが,せっかくですので一言差し上げます.
私は個人的には,男女の完全平等なんて無理だと考えております.端的に,
「自衛隊員の男女比率を1:1にするべきだ!」
と考えた時に,そりゃとんでもないと考えるからです.誰に何と言われようと,これは「男として情けない」と思う自分がいます.前線に立って弾受けて討ち死にするのが男ってもんでしょう.
男と女,それぞれ違う生き物だと私は考えています.もちろん,だからといって男の役割,女の役割にステレオタイプな価値観を押し付けるつもりはありません.上記の「男は戦って散華してナンボ」という価値観も,「そりゃ違う!」と考える人もあるでしょうし,それぞれ自由でしょう.
ただ私は,「女も男と同様にF35を駈って,ロシア・中共軍機にスクランブル賭けろ!」というつもりはない.その時点で,すでに,機会平等さえ実現不可能だと思ってしまいます.
人々は,立場によって「必要なこと」「大事なこと」がはそれぞれ異なります.そのつど「何をもって平等とするか」の価値観も,案外ころころと変わってしまうものです.
場合によっては一人の人にとっての一つの物事でさえ,複数の立場がある.例えば,日本の野球に対して,
「球界全体の盛り上がりを期待する」立場と,
「カープファン」の立場がある.
カープファンの立場からすれば,カープばっかりが勝てばいいのですが,もしそんなことが実現したとしても,それじゃ球界全体の人気は低迷しちゃうでしょう.かといって,「全ての球団のファンに平等に喜んでもらう機会を与える」とか言って何か操作でもしたら,結局は出来レースにしかなりません.
ドラフト制度は,各球団にとってそれなりの「いい選手獲得の機会平等」のシステムですが,それとて,「FA」という代償が出てくる.じゃあ,FA権を行使した丸は差別主義者化というと,そうじゃないでしょう.
時と場合に合わせて機会平等を求めるのは当然のことですが,だからといって,「人よのあれこれにたいして,完全なる機会平等が実現する筈だ」と考えてしまうのも安易だと思います.
丸が抜けたからカープが弱くなった,と考えるのと同じくらいに安易な発想ではないでしょうか.
ついでに,と言ってはなんですが,例の医学部の入試差別の件について.
これ,ある意味部「内」者として,放っておけない問題です.
私はシンプルに,西川女史の「言葉」には反対です.入試という精度を取っている限り,点数が高い学生から,性差なく受け入れるのが当然でです.私の所属する学科の入試にこんな「操作」があったとしたら,それこそ蜂の巣を叩いたような大騒ぎになるでしょう.
それならどうすればいいか?
実は簡単です.(が,戦後日本が随分と恐れてやってこなかったことです).
入試で「本人の意思」を問えばいいのです.晴れて卒業した後に,どのような職業に就くつもりかはっきりと宣言させればいいのです.そして,その中で,社会奉仕の精神を問えばよい.
医師は,国家資格の中でもとりわけステータスの高いものです.その権限を付与された分だけ「社会は国家に対して奉仕する精神(Nobles Oblige)」が問われます.当然のことです.
奉仕の精神があり,しかも,産業医も潔く受け入れるという受験生に,堂々と高い点数を与えればよいし,そのような学生を堂々と産業医として社会に供給してもらいたい.
社会が一定割合で産業医を必要としている限り,そこに振り分けられても潔く受け入れる(少なくとも一定期間受け入れる)学生をまた,社会は望んでいるのです.それが本人の自由を奪うのだの,差別だの言うのはおかしい.少なくとも,国公立大学に対しては,おかしい.
医師って,そんなにわがままが通る仕事なんですねぇ.考えてみてください.
入社試験では,みな「御社のために尽くします」と言い,会社に入ったら今度は,会社の経営陣の一方的な要望に合わせて,人事異動を受け入れている.医師以外の,日本のほとんどの人が受け入れている現実です.
で,これもまた,会社による社員の人権侵害ですか? それとも,社畜のヘタレが誇りを失ったゆえの選択ですか?
会社に対しては忠誠を誓う日本人が,こと医師になろうとした途端,国家・社会の要請は全て邪魔なこと,余計な事として無視する?? ホンマか?
今回の入試の問題は,要するに,性差の問題ではないのです.「意思確認の有無」による悲喜劇です.
ちなみに,日本の入試で「意思を確認できない」のは,それが「思想のチェック」につながり,ひいては差別の温床になると考えられているからでしょう.が,それこそ,風が吹いたら桶屋が儲かる,安倍政権は強いから独裁になる,というのと同じ粗雑な論議でしかないと,私は思います.
米国の入試では,「エッセイ」が重視されていると聞きます.エッセイとは,本人の「意思表明書」としての志望動機を書いた書類です.だからといって,米国の大学入試が差別的になったとの杞憂を聞いたことはありません.
西川さんには,西川さんなりの「医学生の現実」が見えているのでしょう.が,私には,テレビにちょろちょろ出てくる西川さんに「医師としての精神性」を感じたことはありません.
おそらく,それこそ「思想が違う」のでしょうね.
男性と女性は違う生き物…私もそう思います。私は、男性は絶対に女性に勝てないと思いますが(笑)、でも男性らしさ、女性らしさというものはあると思います。これは差別でもなんでもなく、人に向き、不向きがあるように、女性に合うこと、男性に合うことというものはあると思います。どこの世界でも男女平等にすれば良いというものではないと思います。
人は何をもって幸せと思うのでしょうか?お金持ちは幸せでしょうか?貧乏は不幸せでしょうか?お金がなくても幸せな人はたくさんいるでしょう。それこそ価値観の問題でしょが…。では、平等とは何をもって平等なのでしょうか?形だけ平等にして、本当に男女平等と言えるのでしょうか?
人には与えられた役割があると思いいます。その役割を自分で見つけ、それを果たすことが人の幸せでしょう。そのなすべきことを見つけ、それを果たそうとするときに社会が邪魔するのであれば、それは差別でしょう。 しかし、差別差別と煽り、なんでもかんでも男女比を同じにしさえば良いという風潮はいかがと思います…。とにかく、よろしければ直接に語り合いましょう❗